2011年




ーー−11/1−ーー 丸型ヘラ 


 画像は展示会に向けて製作した料理用の小物。台所で使う調理用のヘラが二種類と、バターナイフ、ジャムヘラである。

 木工家具の展示会に、木の小物を添え物として出品するのは一般的である。家具はおいそれとは買えないが、小物なら買い易い。何かを買って帰りたいと言うお客様の気持ちに応えることができる。また、製作者としては、とりあえず小さなものでも使って貰い、それを突破口にして、将来は家具の仕事を承りたいとの目論みがある。

 調理用のヘラは二つのタイプを作った。一つはよくある板状の物。もう一つは、お玉を薄くしたような丸形。

 この丸形ヘラは、あまり目にしないものではなかろうか。私は先日、フランスの厨房を紹介する映像の中で、料理人が使うこのヘラを見た。その形がいかにも使い易そうだったので、記憶に残った。 

 今年の展示会に向けて、調理用のヘラを作ったらどうかという話は、事前にスタッフ(友人)から出ていた。木の小物で、主婦が使う実用的な品物が良いというのが提案の理由だった。展示会には女性が多く来場するからである。そのヘラを製作に入る段階になって、一般的な形のものに加えて、例の丸形ヘラも作ってみることにした。

 試作品を作って、家内に渡した。自分には柄が長いというので、切って短くしたが、これは個人的な事である。実際に調理に使ってみると、とても具合が良いと言った。炒め物、チャーハン、炒り卵などで試したようだが、いずれもかき混ぜ易く、またすくったり、皿に配るのにも便利だとのことだった。これを使い始めると、これまでのヘラは使えないなどと、極端な言葉も出た。


















 小物作りは、気まぐれにやっても採算が合わない。普段家具を作っている者が、片手間にちょろっと作っても、コスト的にペイしないのである。それを承知でやるのだから、つまり採算を度外視した限定生産だから、金銭的なものを離れたプラスアルファの価値を与えたい。割りが合わなくても、何かを残したいというわけだ。

 これまでもその方針でやってきたが、今回の小物たちもその期待に応えてくれれば有り難い。

 ちなみに、丸ヘラは16本、板ヘラは20本、バターナイフとジャムヘラはそれぞれ23本作った。

 ところで、画像に写り込んでいるいるランチョンマットは、家内の作である。昨年から、家内が作る布製品も展示販売することになった。展示会に向けて、私は木工品、家内は布製品の製作に追われる日々である。




ーーー11/8−−− 20周年の展示会


明日から、千葉県習志野市の茜浜ホールで展示会を開催する。4年連続の開催となる今回は、大竹工房の開業20周年記念でもある。

いろんな意味で、これまでにない規模の展示会になる。この規模で開催するのは、これが最後ではないかと思うくらいである。

今回は、家内も同行して、手助けをしてくれる。彼女自身が製作した布製の品物も展示販売する。夫婦で5泊も外泊するのは、新婚旅行以来である。

ところで以前、あるグループ展で準備作業をしている時に、学生時代の文化祭のようだと述べた木工家がいた。

それは当たっていると思う。イベントを作り上げて行く楽しさは、まさに文化祭を思い出させる。

しかしこれは、学生の催しではなく、生業をかけたチャレンジだ。だから、なおのこと面白い。

60歳に手が届きそうになっている男が、学生のように新鮮な気持ちで、自前のイベントに生活の将来をかける。

それにしても、支えてくれる人々の、有り難い助力の数々に接するにつけ、この年齢に達して、このように躍動的で充実した体験を持てる事を、しみじみと幸せに感じるのである。

せっかくこれだけの準備をするのだから、ぜひ多くの方にご来場いただきたい。




ーーー11/15−−− 展示会を振り返って


 先週の水曜から日曜まで、習志野市の茜浜ホールで展示会を開催した。開業20周年記念と位置付けて、かつてない規模でおこなったが、成果はどうだったか。

 一つ指摘できるのは、来場者が減少したこと。すぐそばに以前勤めていた会社があり、そこからの動員が来場者数に大きく影響するのだが、それが芳しくなかった。4回目を迎えて、新鮮さが無くなってしまったのかと思う。それはある意味で仕方がないことであろう。逆の立場だったら、私も同じような気持ちになるかも知れない。

 展示会に、常連のお客様が数多く来て下さる。それが主催者側としては好ましいパターンだ。しかし、それを目論んで、安穏としていることの甘さを思い知らされた。

 一度見た映画を、二度は見ないのと同じで、一度来たらそれで目的を遂げる来場者もいるのだ。過去に一度見に来たことで、「もうこの件は終わり」となっている人がいても、不思議ではない。こちらとしては、毎回新しい品物も展示しているのだが、関心が無い人にとっては、何のインパクトも無いのだろう。
 
 そうでなくても、つまり関心はあっても、会場に足を運ぶまでに至らない人もいるだろう。私だって、知り合いから絵画の展示会の通知を貰って、見に行く気はあったのに、気が付いたら会期が過ぎていたということがよくある。そういう人に来て貰うには、マメにお誘いをするしかない。ぼんやりしていては、ダメなのである。

 ともあれ、既存の人脈に甘んじていないで、新しい顧客を開拓する努力を、日々怠ってはならない。展示会は、それが試される場なのだ。それを肝に銘じて、今後のテーマとしたい。

 さて、来場者は残念ながら少なかったが、ビジネスとしての成果は、それなりのものがあった。このご時世では、木工品の展示会をおこなっても、全く動きが無いという事もある。いや、その方が多いかも知れない。そう考えれば、一定の成果があるということは、有り難い事である。

 前回私の作品をお買い求め下さった方、それ以前から私の家具を使って頂いている方、そのようなお客様方が会場に来られ、「とても具合良く使ってます」と言って下さる。それが、製作者にとって最も嬉しい瞬間である。そして、その中のお客様が、今回も作品をお買い上げ下さった。リピートで購入されるという事は、お気に召しておられることの証しだろう。この仕事をやっている幸せを、しみじみと感じた。

 最後に、手前味噌ではあるが、大竹工房のブログが、役目を果たしているのを感じて、嬉しかった。以前からブログを見ていて、一度現物に触れたいと、わざわざ遠くから来て下さった方がいた。また、これまでお買い上げ下さったお客様も、毎日ブログを楽しみにしているとおっしゃられた。ブログを見て関心を持たれ、初めてお買い上げ下さったお客様もおられた。日々続けてきたことが、成果を生んだ。それが嬉しかったし、これからも続けて行く意欲が湧いた。




ーーー11/22−−− 火吹き竹


 画像の一枚目は、木工家の友人槙野文平氏。自宅の暖炉の火を起こしているシーンである。気候が涼しい大町市郊外にあるお宅では、夏の四ヶ月ほどを除き、年の大半の期間、この暖炉を使う。この日は10月中旬だったが、午後の早い時間に氏は火を入れた。

 余談だが、氏は火を燃やすことが好きだと言う。夏場は、庭先に設けたあずまやの囲炉裏で薪を焚く。湯を沸かしたり、煮物をするためとは限らない。無目的に火を燃やすことが好きなのだとおっしゃる。

 さて、この画像の中で氏が使っているのは火吹き竹。今まで何度もこの部屋を訪れ、火を起こすシーンを目撃した。そのたびに火吹き竹が登場したのだが、私はこれと言った関心が無かった。なんだか昔風の雰囲気を演出する、パフォーマンスのように見えた。ところが今回初めて、何の気なしに火吹き竹を手に取って見た。すると、先端は小さい穴になっていた。全体は、節を抜いたずんどうの管なのだが、先端の節は残してあり、そこに小さな穴が開けられている。それを見て、急に興味が湧いた。


 その発見を氏に告げると、「当り前だろう」と言われた。穴が小さいから、吹きこんだ息が細く、速い流れになる。それによって、目標とする場所に、集中的に強い風を送ることができる。「これで、微妙なコントロールができるのだ」と氏は言った。私が「なるほど、それは理にかなっている」と述べると、「こんなことも知らなかったのか。なに、火吹き竹を使ったことが無い? これだから都会育ちは困る」とからかわれた。

 ともあれ、暖炉の火起こしには必需品だそうである。パフォーマンスではなかったのだ。私が関心を示したのを見て、氏は「自分で作ってみたらどうか」と言った。材は、ホームセンターで売っている竹垣用の竹。手頃な長さに切り、鉄の棒を打ち込んで節を抜き、先端に残した節に小さな穴を開ければ出来上がり。なるほど、これならた易いことだ。

 数日後、ホームセンターへ出掛ける用事が有ったので、竹を調達した。工房へ戻り、チョチョイと加工して、火吹き竹は出来上がった。

 ところが、その先にちょっと想定外のことがあった。竹の内側には、薄い皮があり、中途半端にはがれかかった状態で管の内壁にへばりついている。息を吹き込むと、それがはがれて飛んで行って、出口の穴に詰まる。詰まった皮は、すぐに取り除けるのだが、繰り返し詰まるので厄介だ。そこで、棒の先に布を巻いてピストン状のものを作り、管の内側をこすって、薄皮を除去することにした。

 そのアイデアは良かったのだが、ちょっと手際が悪かった。棒が布から抜け、布が管の中に残ってしまったのだ。それを反対側から細い棒で突いて出そうとしたが、節のところが多少細くなっており、そこに詰まってしまって動かない。えらい苦労をした挙句、なんとか取り出した。

 そんなトラブルを乗り越えて、使える火吹き竹が出来上がった。

 庭でたき火をしたときに使ってみた。確かに、上手く使えば効果は絶大である。が、やはりこれも道具。使い方を誤れば、かえって逆効果ともなる。せっかく燃え上がった火が、吹いたことで消えてしまったりする。

 最後の画像は、自宅の薪ストーブで使っているところ。薪が燃え終わってオキになり、灰に埋もれた小さな火種になったところへ、薪を足して再び火を起こすような場合は、大いに有効である。息を吹き込むと、ゴーという音と共に炎が燃え上がる。そのダイナミックな光景は、思わず興奮を覚えるほどである。
 
 こうして作り方をマスターした火吹き竹を、先日の展示会で出品した。自作のケーナ(竹製の笛)の脇に並べて、いわば冗談のつもりだったのだが、買い手が現れた。別荘に暖炉を持っておられるというお客様。さすが、火の扱い方を知っている人は、見る目が有る。もちろん実用的な道具ではあるが、その一方で、男の遊びの世界が感じられて、なかなか楽しい。











ーーー11/29−−− 最後の晩にすあま


 仮に自分が死刑囚で、明日刑が執行されることを知らされ、最後に何でも好きな物を食べさせてくれるとしたら、何を選ぶだろう。

 この問いに対して、即座に答える人は少ない。過去に一人だけ、即答した人がいた。北海道出身の男性で、答えは「毛ガニ」だった。

 先日、同年代の数名で雑談をしていたとき、この話題になった。私は「すあま」だと言った。向かいに座っていた友人の奥さんは「えーっ、どうしてそんなもの? 信じられない!」と声を上げた。

 ところで、人生の最後にリクエストするかどうかは別にして、すあまが好きな人は結構多いと思う。ただ、とても地味な食べ物なので、話題に上ることは少ない。その一方で、その名を聞いて悪しざまにけなす人もいる。ある酒の席で、好物は何かという話題になり、私が「すあま」と言うと、同席した初老の女性は「あんなものが好物なんて、あなたよほど貧しい暮らしをしてきたのね」と暴言を吐いた。

 その時、「いや、すあまは美味しいですよ。私も好きです」と述べた男性がいた。上品で落ち着いた、しかも毅然とした言い方だった。私は「ああ、すあまはこのようなタイプの人に好まれるのだなぁ」、と思った。






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